ブログ

院長の院長による徒然日記です。歯科のことはあまり書いてありません。

院長ブログ

わが青春の下半身(ジーンズとスニーカー)

(本文は平成22年に地元歯科医師会の機関紙に投稿したものです。)   
 
 サブタイトルが無ければ、昔イタリア映画にあった 思春期の頃に年上の綺麗な女性との様々な体験を映像化した
「青いシリーズ」を連想するようなタイトルでありますが、残念ながらそのような内容ではございません。
 私は昭和33年、愛知県の瀬戸市という所で生まれ育ちました。今年で確か52歳になります。
ほぼ「サザエさん」の母 磯野フネの設定年齢と同じとのことです。これを知った時には愕然としました。
で、瀬戸市という所はその名のとおり瀬戸物(陶磁器)の産地で比較的知名度はあるのですが、それ以外に特記すべきものは何も無く 名古屋人からですら田舎呼ばわりされる

所故、これから記載することは全ての情報が先行し、最先端を行く東京で育った同年代の方々とはタイムラグがあるかも知れませんので、ご了承下さい。
 
 昭和45年頃、すなわち12、3歳になった頃に近所に所謂ジーパン屋が開店しました。
その当時ジーパンと言えば、年配の方々はこぞって「あんなものはアメリカのモンペだ。
みっともないから履くんじゃね~」などと言っておりました。
そろそろ好奇心も旺盛となり、服も親が与えた物ではなく自分で選びたい年頃になってきており、
当然のようにジーパンなるものを履こうと、そのお店に向かいました。
店内の当時の品揃えはほぼ国産で、というかMade in USAはこのお店に無かったような、

もしあったとしても1ドル360円の時代ですから高価過ぎて完全に対象外で

目に入らなかったのではなかったかと思います。
 ビックジョン、ボブソン、エドウィンあたりが国産主力メーカーでした。
オーソドックスなインディゴ・ブルーのデニム地の他にも 今以上にかなりのカラーバリエーションがあり、
シルエットはストレートかスリムそしてベルボトムの3種類ぐらいでした。
で、私が最初に購入したのは自分の体型をも省みず、ビッグジョンのベルボトム 
カラーはオレンジ、股間はジッパーではなく露出したボタン止めという代物で、
なんて無茶な選択したのだろうと今でも後悔しております。
後日取りに行き(当時は即日裾上げではありませんでしたね。)、
さて自宅の鏡の前に立ち、自分の映った姿を見て愕然としました。
TVや写真等で同じようなジーパンを履いている方々とは大違いなのです。
何が違うのでしょう。当然顔の作りが違うのは当たり前なのですが、
ベルボトムのシルエットがまったく自分のイメージと違っていたのです。
当たり前ですね。足の短さ故、ベルボトムが開ききる前にカットされているからです。
二度とベルボトムなるものは買うもんかと誓い、次にボブソンの黒のスリムを購入しました。
まだ自分で見ても何とか絶えることができましたので、先のオレンジベルボトムは
このスリムの型に似せて裾を縫い合わせてしまいました。

 その後国産ジーパンを種々買っておりましたが、ある日母親に名古屋のデパートに買物に付き合わされた際、
初めてLeeのストレートのホワイトジーンズに遭遇しました。
結構高価でしたが無理言って買ってもらいました。恐らく自分が始めて身に着けた

Made in USA ではなかったかと思います。
ご存知の方も多いとは思いますが、Leeは他のジーンズ(あえてここからはジーンズと表現させて頂きます。)
と比べお尻のポケットの形状が違うのです。
結果論かも知れませんが、なんでもこの形はヒップラインを美しく見せる為のものだそうです。
自分の後姿なんて見たこともないし、気にもしていませんが何故かこの形状が好きで、
それ以来いつもこれを履いておりました。 

しかしながら白いカラー故汚れも目立ち寿命は短かったと思います。
学ランを着ていないときはいつもジーンズ姿でしたが、やがて高校生となり、

為替が変動相場制になった影響でしょう、Levi’sというメーカーを巷で見受けるようになり、

501という存在を知り、ついにこれを履くようになりました。
当時はわざと色落ちさせたものは売っておりませんでしたので、新品を漂白剤につけたり軽石で擦ったりと
とにかく早くユーズド感を出したく無駄な時間を費やしたものです。
ジーンズ好きな友人なんかはインディゴ・ブルーを略白くなるまで落とし、その後紅茶で染めるというツワモノまでおりました。
その後もこの501のバリエーションでホワイトとか、501シルエットでボタンがジッパータイプの

502とか色々と買って履いておりましたが、当然穴が空けば捨てていき、

その後はLL・bean製を米国から通販で購入したりし、気がつけば近年はユニクロの安いジーンズを

履くまでになっておりました。
ユニクロのデニムは国産のかなり生地が良いものを使っているそうですが、

どうも最近の若者がターゲットなのか股上がとても浅く、昔から履きなれた感触とは違うのです。

(高校時代には京都のHalfというアパレルメーカがあり、そのベルボトムは大変股上が浅く、
Rock野郎がロンドンブーツに合わせて履いていましたが、靴脱ぐと「殿中でござる!!」状態に・・・)
しかしその驚きの価格設定が大変魅力的で、全ての衣服はユニクロ製と言っても過言で無い状況になっておりました。

 そうこうするうちに、ジーンズのサイズが自分の子供と略同じになり、

女房が洗濯後どちらのものなか解らない状態となり、自分のタンスにはジーンズが

入ってない現象が起こり始めました(マジックで名前書くのも何だかね~)。
また、以前より同い年頃の患者さんで「この人ジーンズに完全にこだわりを持ってるぞ。」という方がおりまして、
彼にも感化され、ここはまた復活させよう。ということで最近いきなりLee 4本 Levi’s 1本を購入致しました。
これらは日本で作られた物ですが股上も深く、見た目がどうとかではなく 何か懐かしい安心感があります。
 今では 穴が空いたものをそれがファッションだとまったく気にせず、また501のビンテージなどはその価値が下がるからと洗わないで履き続けるという時代です。これらに関して自分は基本的には反対で、

インディゴ・ブルーとお日様の匂いが混じる、洗ったばかりのすこしゴワゴワしたジーンズが好きなのですが、
普通に履いていても何時かは色落ちし、何処かに穴は空きます。
しかしそれを恥ずかしくなく逆にオシャレとして履くことが出きるということはある意味エコなのかも知れません。
また、年代ごとの501のレプリカも販売されており、インターネットでこれらを検索しては楽しんでいるのです。
 
 一方、ジーンズ以上に若い頃から好きなものがありまして、それはスニーカー、

特にバスケットシューズです。初めて購入したのは高校2年生の頃で、

コンバース・チャックテイラー・キャンバスオールスター・ハイカット・ホワイトです。
こう仰々しく記載すると「何か特別仕様のコンバース?」と思われるかも知れませんが、

いたって普通のコンバース、ハイカットのバッシューのことです。
やはりこれも為替相場が変動制となり、made in USAが次々と入って来た影響で

私の目にも留まったと思われます。それまで履いていたスニーカーはどういうのだっけ?

と忘れてしまうぐらいに自分としては超アメリカ的なデザインのアイテムでした。
同時期に、Pro-Ked’sというメーカーのスニーカーも見受けられるようになり、

何でも本国アメリカでは、西海岸のコンバース、東海岸のプロケッズと言われていたそうです。
私的には本来の目的であるこれらを履いて本格的なバスケットをしたらどうかという比較はしてませんが、
後者の方がデザイン的にすっきりしており、ソールが厚くクッション性に富み、

履き心地が良いという感想を持ってます。
何れも1万円程度とかなり高額でした。靴で1万円といえば、当時通学で履いていた

リーガルのコインローファーの廉価版が7千円ぐらいしましたので、
皮製でもないのにかなり高価な「ズック」ということになります。

 さて、同時期に流通してきたもので決して外す事の出来ないバスケットシューズがもうひとつあります。

それはadidasのスーパースターです。
私はこのハイカットモデル(プロモデル)を当時散々探しましたが、残念ながら出会うことも出来ず、

3本ラインが黒のローカットモデルを購入し履いていました。
値段はこれがまた高くて1万5千円ぐらいしました。このスーパースターは

made in W・Germanyではなく、Franceなのです。
 adidasは当時、本国の西ドイツやフランス製などがあり それぞれ異なったモデルを生産していました。
このスーパースターの上位モデルにウルトラスターというのもありました。
大概の方はこのスーパースターのハイカットモデル(プロモデル)の存在を知らないのではないかと思います。

私も当時実物を面前でみたことはありませんでした。
何故私がこのインターネットの名称すら無い時代にその存在を知っていたか・・・・ 
それはこの頃、女子の間で大変人気のあったイギリス出身のアイドルバンド、

ベイシティー・ローラーズのメンバーが履いていたのをテレビ画面で観たからです。
イギリスらしく、コスチュームにタータンチェックを随所に応用したこのバンドには音楽的には

まったく興味はなかったのですが、ただ足元だけは注目して見ておりました。
地元の瀬戸市なんかにはadidasを売る店すらなく、名古屋の繁華街をうろつき 

このハイカットのスーパースターを探しましたが、見つかりません。
「そうだ、東京なら。東京に行こう。」ということで、何度か上京している東京好きの友人から、

アメ横もしくは中野に靴屋が多いみたい。
という情報をもらい遥々東京まで探しに来ましたが、目的は達成されませんでした。

最近になってやっとその復刻版をインターネットで購入しましたが、
残念ながらFranceの文字は何処にもなく、その代わりにKOREAの文字が入っております。
 
 このバスケットシューズ達、タウンで履かれる前は当然、バスケット用に作成されたものですから、

競技で活躍していたことでしょう。
コンバースの創業は1910年頃だそうで、今の形になったのは1948年だそうですが、

自分がコンバースの存在を知る以前にこの靴を無意識で観ているのです。
それは多分皆さんも一度は観たことがあるであろう、アメリカミュージカル映画の

「ウエスト・サイド・ストーリー」です。
この映画でプエルトリコ系アメリカ人で組織されたシャーク団の頭(ジョージ・チャキリス)が

見事にV字バランスを決めて踊っているワンシーンを思い出す方は多いのではないでしょうか。
その際に彼はコンバースの黒のOX(コンバースはローカットをOXと呼びます。)を履いていたのです。
この映画は1961年に封切られていますが、しかもこの際に用いられたコンバースは

驚いたことにmade in Japanということなのです。
すなわちアメリカのコンバース社は日本の靴屋さんにこれらを作らせていたということになります。

時代はベトナム戦争に入っていましたので、朝鮮戦争頃より米軍関係が日本社会により多く入り込み、

大したことはしないくせに自己主張と賃金アップ要求だけはしっかりしているアメリカ人労働者(想像です。

とは異なり、職人気質で黙って真面目に丁寧な仕事をする日本(これも当時を想像)の靴メーカーに

発注依頼したのでしょう。昔、月星シューズとういメーカーがありましたが、

多分この会社に委託されていたと私は推測しています。(月星シューズはその出発点は地下足袋製作だそうです。)
 色々とバスケットシューズとの係わりを記載しましたが、本当はPro-Ked’sが好きで、

これについても色々と書きたいのですが、圧倒的な人気の差なのでしょう、

今では履いている人を殆ど見かけることも無く、当時の復刻版が格安で買えるという残念なものになっています。 
しかしながらコンバースのオールスターやadidasのスーパースターは現在でもスニーカーの定番として、
また色んなバリエーションが与えられ存続し、進化すらしています。
中にはそこまでしなくても良いだろうと思うものも多々見受けられますが 若い世代に脈々と引き継がれ、スニーカーの定番として履き続けられているのを見るのは大変に喜ばしいことです。 
しかし現行品を70年代のものと比較すると、キャンバス地や皮のクオリティーがかなり落ちていますが、当時の値段の半額以下で買うことができますのでこれに関しては許すことに致しましょう。
 
 スポーツシューズは当時やドイツやアメリカ製が優れているかというと、これらはもともと日本人の

一般的足型に合わせて作られてはいませんので、本来の目的で履いた場合にはかなり無理して履くことになります。

なんでも先の大戦の大日本帝国の兵隊さん方は上部から、「靴に足を合わせろ!!」

と戒められたそうですが・・・。 

 自分は以前サッカーをやっていましたが、サッカーシューズといえば、まず栄光の3本ラインのadidasです。
ドイツ人は特に足がデカイそうで、adidasの所謂ジュニアサイズなら丁度日本人の平均的足の大きさや 甲の高さになるようで、比較的無理なく履くことができたことでもadidasは受け入れられたのではなかったかと思います。同じドイツ製でもPumaはやや細めで、イタリヤ人よりに作られていたかも知れません。
(余談ですが、adidasとPumaの創始者は血を分けた兄弟です。)
 そんな中、日本にも各スポーツの種類に合わせてシューズを提供していた優れたメーカーがありました。

それはオニツカ・タイガーです。
このブランドは当時タウンユースという履き方をしている人は皆無だったのではないでしょうか。

すなわち今風に表現すると日本肉食系体育会御用達勝負靴みたいな感じでしょうね。
このオニツカタイガーが体育会系じゃない人にも広く認知されたのは、

1973年の札幌冬季オリンピックではないかと思います。
ジャンプの日の丸飛行隊が使用し赤いオニツカラインがかなり目に焼きつきましたし、

スノトレという雪道トレーニングシューズなんかもスキーヤーから大変もてはやされました。
もともとカジュアル使用のコンセプトなんかはまったくなく、日本国内のプロフェッショナルなフィールドを戦力としておりましたので その後は地道な展開だったのですが、
近年フランスのスーパーモデル達が80年代ファッションブームのアイテムとして

オニツカタイガーのビンテージを何故か履きだし、それでメーカーも次々に復刻版を出している現況になっております。

このオニツカにもファブレというバスケットシューズがありましたが、
ついでにバックスキンのローカットを復刻させてくれるよう私は密かに望んでおります。
現在マラソンしている方に聞くと、オニツカタイガーの後継となったアシックス製がアマチュアランナーにはもっとも適しているとの話はよく聞きます。やはりその辺は流石にいい加減な靴作りをしていないなと安心しております。 

いい加減な靴といえば、やはり一時期のナイキでしょう。(nike好きな方、ご免なさい。)
ナイキの創業当時、すなわちレザー、ナイロン・コルテッツやワッフルソールのランニングシューズを作っていた頃は大変真面目だったと思います。
このメーカーは後発となりますから、有名選手とのコラボ等で動く広告塔を作る等経営戦略を積極的に企て、みるみるうちにスポーツシューズのトップブランドとなりました。(コンバース社をも買収したそうですが。) 
プロフェッショナルなものはその仕様はちゃんとしているのでしょうが、一時期は何でもナイキのマーク付ければ売れるぞ。みたいな感があり、ロボットの足元みたいなデザインで、また成田空港で海外に旅立つ老若男女の足元は必ずナイキ。で、ちょっとうんざりしておりました。
ナイキ自体も少し反省したようで、アジア諸国に作らせるのをかなり自粛したそうです。
 
  現在はインターネットの普及で、興味あることはどんどん検索しその情報を得ることができますが、ジーンズとスニーカーにつきましてその実体験を元に記載してきました。

そしていまだに好きでちょこちょこと買ったりしています。コンバースやPro-Ked’sは同じモデルの色違いを取り揃え、その時の気分で選んで履いております。
 何れにしろ70年代当時に日本に入ってきた物は、メーカーの創業当時のコンセプト、

すなわち確かな製品を提供し信頼を得る段階は終局し、大量生産体制に入っていた頃のもので、そのクオリティーがかなり落ちていたのも知らずに欲しがっていたということになります。
ただ単にアメリカ製やヨーロッパ諸国製というだけで持てはやされていたものより、

当時日本が研究し本物をも凌ぐ製品を作成していたということを海外が先に認め、
またそんな日本に先進諸国が驚異を感じ、後になって我々がこのことを実感するのは

日本人の悲しい性なのでしょうか? 
この続編を記載するとするなら、「わが青春の上半身(エレキギター達)」となるのですが、この悲しい性を体感したことがありますので、その際にまた触れたいと思います。
   

2018年08月27日

始めてシリーズ(音楽編) その5

始めてのCD

コンパクト・ディスクなるものが1982年ごろ発売されます。
大学卒業頃です。CDプレーヤーは当時は高価だったので、すぐには導入できませんでした。

先のブログでも記載しましたが、当然親父はプレーヤーはすぐに揃えたようです。
で、ある時帰省したら SONYのポータブルプレーヤーが余っているではありませんか。
ここぞとばかり許可をもらい 持って帰りました。

院長写真

今もありますが、残念ながら動きません。

 

これでCDが聞ける環境は一応整いました。さて記念すべき購入する最初の一枚は・・・


院長写真


です。これは以前から決めてました。今だにフェイバリットの一枚です。

ノイズが出ない。盤をひっくり返さなくても良い。ボタン操作だけで聞きたい曲が瞬時に と大変便利なのですが、

アナログの音に聞きなれてるとHiが自分にはかなりきつい印象です。

親父はグラフィック・イコライザー組んでましたので、おそらくCDはイコライジングして聞いていたと思います。

で、このPink FloydのThe Dark Side of the Moon、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」の次に全世界で売れたLPとか・・・
発売20周年記念盤やリマスター盤が出て 益々音も良くなり、30周年にはついにSACDが発売されます。
SACDになって やっとアナログに近い音質になりました。というよりもヘッドホンで聞くと、リマスタリングの影響もあるでしょうが、今まで入ってたとは思わない音がてんこ盛りです。
今だに聞くたびに新たな発見があります。というかそれだけ沢山このアルバムは聞いている ということですね。

2018年07月21日

始めてシリーズ(音楽編)  その4

始めての帰省

高校卒業後 愛知県の片田舎から東京の歯科大学に通うことになり、自宅を離れた生活をすることになります。
最初の2年間は 市川市の江戸川べりの四畳半一間の下宿屋さんにお世話になりました。
ここは兄が上京後借りていた部屋で、世田谷方面に越したため 入れ替わりで入居しました。

流石にステレオセットを置く訳には行きませんし、時代はカセットウォークマンが発売される少し前のことですから、カセットテープとFM/AMラジオが聞けるステレオのポータブルな奴 確かテレコ と言いましたっけ? を愛用しておりました。(何故かテレコも含めカセットテープが今ブームになっているようですね。)
ラジオ以外で音楽を聞くには カセットが主となる訳ですから、帰省した際にLPをカセットに録音して戻る訳です。

私の音楽好きは かなり親父の影響があると思っていますが、自宅には 昔から高級なものではありませんが、常にその時代時代のオーディオセットが診療室に組まれており、帰省するたびにオーディオ関連のハードが増えたり機種変されていました。

帰省して親父のセットでLPを録音していたある時、
オリビア・ニュートンジョン「そよ風の誘惑」、
サンタナ「キャラバンサライ」
アル・ディメオラ「エレガント・ジプシー」のLPと、
カセット製品版のエルトン・ジョンの「グット・バイ・イエロー・ブリック・ロード」
が新たにコレクションに加わっているのに気が付きました。

ジャンルにはそんなに拘りはなく、しいて言えばジャズやラテン系が比較的多かったのですが、常にラジオ(FM愛知だったかな?)を結構な音量で流しながら診療している人でしたので、きっとこれらの曲が流れ 気にいって買ったのでしょうね。
サンタナはラテンという括りに入るかもですが、しかしながらこの4つの組み合わせにはちょっと驚いたというか・・・
(当時キャラバンサライは どの曲がシングルカットされ流れたのでしょう? ラジオ的なアルバムでは無いと思いますが・・・)

最近 LPを聞ける環境にしましたので、保管しておいたこの親父のキャラバンサライに針を落としてみると、ボーカルの音が遥か遠くに聞こえる感じでなんかちょっと変です。何故だろうと思ってふとレーベル見たら なんとSQ4チャンネル。
親父は確か4チャンネルは組んでいなかったので 間違って買ったのかな~ などと推測してます。

院長写真

 

4チャンネルは70年代の所謂サラウンドを狙ったものですね。世界的統一が果たせず廃れてしまったようです。

自宅のリビングには 主に映画用にと一応安価な5.1サラウンドは組んではありますが、映画館並みに音量を上げないとその効果は得られません。勿論防音室ではありませんから近所迷惑どころか 家族からもクレームが入り あまり利用してはいません。

オリビア・ニュートンジョンは 80年代 本人なのか レコード会社等の意向なのか解りませんが ガラッとイメージチェジして、ハイレグのエアロビ・ルックスで「フィジカル!! フィジカル!!」と叫んでた頃のLPは今でも持ってますし、キャラバンサライとグッド・バイはデジタルでよく聞いております。
アル・ディメオラはエレクトリックも良いですが、やはり パコ・デルシア、ジョン・マクラフリンとのサンフランシスコで録音されたあの名音源。このステージは youtube でどなただか上げてくれていますから観ることができます。
このサイトにはMTVなどプロモ映像が盛んになる前のブートレグ映像が結構出ており、おかげで休日は 下宿で聞いていたアーチストの当時の映像を観ることで終わっていきます。 

2018年06月22日

始めてシリーズ(音楽編)  その3

始めてのサントラ盤

子供の頃 よく観に行った映画といえば、東宝の特撮シリーズと若大将シリーズの二本立てを思い浮かべます。
封切と同時に近所の映画館に 友達とつるんでよく観に行ったものです。

(封切という言葉は最近聞きませんが、配給会社から缶に入ったFilmが映画館に運ばれてきて その封を切ることから言われたんでしたっけ?)

怖いシーンのある映画もありました。
東宝では マタンゴとか サンダ対ガイラ、フランケンシュタイン 対 地底怪獣、大映の大魔神、
あと映画館では観ませんでしたが、TVでよく放映していた イギリスのハマー・フィルム・プロダクションのドラキュラやフランケンシュタイン シリーズ。
(クリストファー・リー や ピーター・カッシングがスターウォーズシリーズに出てきた時は大感激!!)
その他 日本古来の四谷怪談とか 番長皿屋敷とか 耳なし芳一とか・・・ ウルトラQにも怖いのありました。

で、中学生になって そんなレベルのものじゃない とんでもない映画がアメリカからやってきました。
「エクソシスト」
所謂オカルト映画ブームの始まりですが、この映画 ただ怖いだけでは無くて、登場人物のキャラ設定もちゃんとしていて ストーリーに見事に絡ませています。この手の映画の中でも特に名作と言われてます。
ましてや 演出されているとはいえ、実話モデルがあったらしい ときたもんだ!!
それに、怖い話は おおよそ「悪いことしたらこんなことになるからダメですよ。」という戒め的なことも含んでいますが、悪いことなんか一切してないのに・・・
映画前半部分で、屋根裏部屋でガタガタ音がするので 確かお母さんが上がって確かめに行くと、ロウソクの炎が突然大きく燃え上がるのに合わせ、後方のスピーカーから大きな音を出すというビックリ演出もありました。ご法度のサブリミナル映像も使っているようです。
また、観終わって会場を出た所には、確かリーガンが居た部屋の窓(カラス神父が落ちた窓)のオブジェが目に入ってくる という小粋なことも・・・・(窓じゃなくて 部屋の扉だったかも)

で、この映画に使われた音楽がチューブラー・ベルズ。ものすごく印象的な曲です。
観に行った翌日だったか このサントラEP盤を買うべくレコード屋さんに走りました。

院長写真

 

曲を聴けばあの映画 と連想するものは洋の東西を問わず、そして枚挙に暇がない程ありますが、怖いもののBGM イコール この曲 として完全に脳内に組み込まれてしまったと言うか・・・ 恐らくこの現象は私だけではないでしょう。

後に マイク・オールドフィールドのオリジナルを全編聞くことになりますが、オカルトを想像するのは最初の章だけで 、一人でとんでもない数のオーバーダビングし録音作成されたこの壮大な組曲 大好きです。

当時購入したEP盤がまだありましたので 、聞いてみました。本人が録音したものではなくてとても綺麗に演奏、録音されています。

これは本人の承諾なしに使ってしまったらしいのですが、オリジナルはヴァージン・レコードの記念すべきファースト・リリースだったようで、この映画のおかげで大当たり。
オールドフィールド本人も勝手に使ったことに対しては怒っているらしいのですが、
一躍有名になったので、あまり文句も言えないとか・・・・

最近、アメリカのTVドラマで「エクソシスト」のリメイク物が制作放映されたらしく、
これがまた評判が凄く良いとのことですが、
「評判が良いって どういうことよ。オリジナルは首が回るのはいかにも人形でしたが、今はCGだろうから、また、ディレクターズカットのスパイダーウォークも含め その怖さが増しているのか??」
と色々考え 観るかどうか大変躊躇してます。(そうです、今も昔も大変に怖がりです。)

好きな映画は何度でも見る性格なのですが、この「エクソシスト」はDVD持ってますが繰り返し観てません というか 観れない・・・

そんなに近年でもありませんが、映画とマッチ(?)した音楽で「きっとくる!! きっとくる!!」・・・
絶対来ないで欲しいです。
DVD、いやビデオテープ絶対に持ちたくないです。

2018年06月09日

始めてシリーズ(音楽編)  その2

始めてのアルバイト

高校一年生の夏休みだったと思います。
学校側はアルバイトを許可していたのかどうか定かではありませんが、毎週日曜日、愛知県の犬山遊園(現日本モンキーパーク?)の特設ステージ会場で、30分ぐらいの持ち時間でアマチュア・バンド何組かがステージをやるというイベントに参加しておりました。

ワンバンド2,000円ぐらい貰ったかと思いますので、 一応アルバイトですね。


当時は今みたいに練習スタジオが沢山あるわけでも無いので、それぞれの自宅に集まって音合わせすることが多く、当然音量は制限されますので、ステージでは最低でもドラムスの生音に合わせて音出せますから爽快です。

中学・高校とバンドを組んでいまして、私のパートはベース。 
当時ベースはギターがあまり上手じゃないからべ―ス みたいな感がありましたね。
私もそうなんですが、何故かベースが好きで・・・

犬山遊園は名古屋市内から少し離れていますので、出演料?の配当分では全然交通費にもなりません。
しかし 下手でも人前で演奏するということで、確実に度胸とグルーブ感は育つものだと感じていました。

リーダーでリードギターのH君は学内でもダントツで上手く(学業も優秀)、当時からギター泣かせてました。
こういう人がその気になればプロの道に進んで行くのでしょう。
あとドラムスのK君も大人しい性格でしたが かなり上手でした。

我々は所謂ベルボトム・長髪系でしたが、他のバンドに わりと やんちゃな輩達が通う高校の 皮ジャン・リーゼント系がいました。
初対面で「カツアゲ」されるのか と思いましたが、話してみると とっても音楽好きの良い奴らで、拍子抜けしたというか・・・ 仲良くなりました。

写真は当時使ってたベースで グレコ(グネコ)の多分PB-600です。
ボディー材はメイプルなので ものすごく重いです。
近年アメリカの とあるベーシストが70年代に使っていたスタイル に改造しました。

当時は指弾きでしたが、今はピックでないとリズムキープできません。ましてやスラップ奏法なんぞははまったく・・


2018年06月02日

始めてシリーズ(音楽編)  その1

ブログを始めるに際して、何から記載して行くか考えました。

そこで しばらくは「始めて・・・・した」を載せていこうと思います。

まずは 音楽関係から。

 

始めての LPレコード

カーペンターズ / ゴールデン・プライズ

院長写真

 

カーペンターズ初期のベスト盤だと思います。小学校の6年生にお小遣いを貯めて買いました。

これに挿入されている曲が流れると、当時の思い出が甦ります。

始めてスキーに行くことになり、このLPを聴きながらワクワクしてその準備をしていたこととか・・・

ビートルズの「ヘルプ!」「涙の乗車券」は本家を聴く前に このアルバムで知ることになりました。

「雨の日と月曜日は」は今でもカーペンターズの楽曲で最も好きな曲です。

歌詞の内容を未だに追及してはいませんが、「雨の日と月曜日は気分がブルーに!!」

確かに・・・

 

EP盤(所謂ドーナッツ盤)は当時500円ぐらいだったので、以前から時々買って聴いてはいましたが、

何が最初だったかは はっきりと記憶はありません。

ベンチャーズだったか、加山雄三だったか、アニメの主題歌だったか・・・

 

その後Chicagoなどを聴き、1970年代のブリティッシュ、アメリカンHard Rockの世界に入っていきます。

ちなみに現代の若者は ビートルズはクラシック、ツェッペリンはポップスとして扱っているようです。

しかし、このLPの帯の上部を見ると「ROCK」と記載されてます。

当時は カーペンターズもロックとして扱われていたのでしょうか?

最近知って驚きましたが、「スーパースター」の作詞作曲は、レオン・ラッセルとボニー・ブラムレット。オリジナルはデラニー&ボニーのアルバムに収録されているらしく、ギターはクラプトンで録音みたいな記載があります。まあそういうことなら確かにロックかな? しかも南部のスワンプ・ロック。今更ながら意外でした。

2018年05月30日